イアン・ミッチェル

クイーン一筋だったロック少女時代の私は、専門学校の女友達とリトル・クイーンというバンドを結成して、クイーンやキッスの楽曲を下手な演奏でコピーしていました。私はギター。ギタリストと呼ぶにはお粗末な演奏でしたが、唯一の舞台であった学園祭での公演は、今では良い思い出です。そのバンドのヴォーカルが、イアン・ミッチェルがBay City Rollersを脱退して、Rosetta Stoneというバンドを組んだんだけど、「Sunshine of Your Love」をカバーしていて、なかなかいいバンドなのよ、と教えてくれました。私も,可愛いルックスの割にはしっかりしたポップロックを感じるよね、と評論家ぶって同意しました。その結果、私設応援団を作ろうということになったのです。半ば強制的にではあったのですが、アイドルの応援にちょっとウキウキな私でした。

そして私たちがとった行動は、応援団だけどレコード会社に公認してもらおうということになり、レコード会社に直談判に行きました。今思うと恐ろしい行動です。当時の東芝EMIに押しかけ、担当の鈴木博一さんに初めてお会いしました。「君たちロゼッタ・ストーンのFCの公認は出来ないけど、応援はしてね」という結論ではあったのですが、ロックが好きなら、明日ディープ・パープルのイアン・ギランが来日するんだけど、空港に行って出迎えてくれないか、と言われたのです。そんな業界人的なことに憧れつつ、空港にお出迎えなんて親に許してもらえないと思いお断りしたら、こういう音楽も聴いて欲しいな、と言われ、スティーヴ・ミラー・バンドの「ペガサスの祈り」を視聴室で聴かせていただきました。「ペガサスの祈り」は、今では大好きなアルバムとなり、私のお気に入りトップ20に入りますが、ロゼッタ・ストーンの公認応援団は、断念することになりました。

その後、湯川れい子先生の「全米トップ40」のアシスタントDJオーディションに合格し、山本さゆり先輩の後釜として、番組に参加することになりました。番組を通じて、Bay City Rollersとともに有名になったチャッピー先輩に続く存在になるには、私が熱烈に応援し、そのバンドとともに成長できる、そんなアーティストに出会うことでした。当時の番組ディレクターの岡田三郎さんの事務所で電話番をしながら、アシスタントDJとしての練習性時代を送り、ついにDuran Duranに出会うのですが、この時、なんとイアン・ミッチェルとの出会い(?)もありました。

岡田さんは、チャッピー先輩とともに、Bay City Rollersのマネージャー、メンバーとの親交を深め、私が事務所でバイトする頃は、Rosetta Stoneを脱退し、イアン・ミッチェル・バンドを結成したイアンのFCも運営していました。事務所に通い始めて驚いたのは、倉庫にある貴重な品の数々。メンバーが着ただろうローラーギアやグッズが山のようにありました。そして私の仕事は、F Cの会報を送るための宛名書きと封筒貼り。学生時代、公認応援団を希望していた私は、ここで学生時代のto do listの一つを実現させたわけです。

岡田さんは、Bay City Rollersの再結成公演の仕事にも携わっていた関係で、私もアシスタントとしてツアーのお手伝いをすることがありました。84年は、エリックがマネージメントの社長として来日。私にとって初めてのローラーズのメンバーでした。と言っても、あくまでも社長としての姿でしたが、、、そしてなぜかエリック、岡田さん、アーティスト、私とのミーティングを私の自宅でやるということがありました。その後エリックがアーティストとして来日した時に、以前会ったことがあるという理由でエリック担当となり、レコードショップなどにお連れしたことがありましたっけ。私のイギリスの友人で、スコットランド出身のジャーナリスト(元レコード・ミラーの副編集長)ロザリンは、「エリックに会うなら、よろしく言っておいて。よく彼とは喧嘩したわ」と。イギリスのジャーナリストは、絶対にアーティストをヨイショすることはしないので、70年代はかなりやりやったようです。そのことをエリックに話すと、彼は笑いながら「覚えているよ」と言っていました。そんなアーティストとジャーナリストの関係もいいもんだなぁ、と思ったものでした。

イアンとは、86年のレスリー、ウッディ、イアン、パットでの来日公演の時に会いました。日比谷野外音楽堂での公演でした。会場の後ろで、十兵衛君抱っこしていたのは私です(笑)。イアンは、自分のバンドとしての音楽活動も引き続きやっていると話してくれました。そして自由時間であっても、ぜひ聴いて欲しい、と熱心にデモ音源を聴かせてくれて、自分のヴィジョンも話してくれました。また、岡田さんの事務所の人の結婚式に、イアンとウッディがゲストとして出席したのですが、その時もアテンドを担当した私は、二人がとても仲がよく、いつも熱心に音楽の話をしていたことを鮮明に覚えています。

70年代、Bay City Rollersの日本武道館での公演は観ましたが、当時の熱狂的なフィーバーを、その熱の外で見ていた私にとって、80年代、仕事を始めたことによって、一世風靡したアーティストたちの、その後に再燃する音楽への夢の大きさを知ることが出来ました。それは、私の仕事に対する思いをさらに熱くしてくれたような気がします。そしてラジオのDJを担当するようになり、Bay City Rollersが生み出してきた数々のヒット曲の素晴らしさを改めて知ることになったのです。

 

2020年9月1日(LA時間午後)イアン・ミッチェルが亡くなりました。夢を抱いた青年は、その後、どんな人生を送ったのでしょうか? 世界中の少女たちに夢と希望とトキメキを与えてきたイアンの人生。彼の62年の生涯が、これからはファンのみなさんの熱い思いで、ますます輝いていきますように!

R.I.P イアン・ミッチェル

 

Thanks to Hiroko Matsuzawa