Bryan Adams…My Story というか旅日記!

2017年1月、4年振りのBryan Adams@日本武道館が行われました。本当に素晴らしコンサートでした。スクリーンの不具合などはありましたが、そんなことはどうでもいい、とさえ思えるほど、ライヴの醍醐味を味わうことができました。ヒット曲満載のコンサートであることはもちろんですが、ステージでパフォーマンスするブライアンから、ものすごいエネルギーを受けたような、そんな元気がもらえるコンサートでした。ブライアンは今年58歳になります。年齢ってまったく関係ないんだなって、同世代の私たちに勇気を与えてくれる時間でした。

Bryan and sn 2017

2017年

Bryan and sn

2013年

ブライアンに最初に会ったのは、82年のヤマハ音楽祭での初来日の時でした。彼のことを注目している人が少なかった時代です。当時のレーベルの人たちがこれまた同世代で、(うららこ&長谷くん)なんだかまわりで盛り上がって、新人ブライアンを応援していました。この写真はその時のもの。10年ぐらい前に、あらためてブライアンに見せたら、これは外だし禁止だからと命じられましたが、何度か破っています。禁止したいのは私のほうですが、ブライアンの初々しい姿をぜひ見て欲しいから。

Bryan and sn 1982

1982年

そんなブライアンは、アルバム「ギヴ・ミー・ラヴ」「ジェラシー」に続く3枚目のアルバム「フロム・ザ・ハート」(83)が全米でTop10に入り、ついにブレイク!。あのホテルの窓際に座っていた可愛いブライアンから、スター街道まっしぐらのブライアンとなっていったのです。そして世界的なブレイクとなる「レックレス」のレコーディングが完成となった時に、地元バンクーバーで取材をすることになりました。ブライアンの取材のアテンドは、いつもレーベルの木村麗子が担当し、その後ブライアンとの取材には、仕事が関係なくなっても、麗子を頼り、ブライアン、麗子、私の三角形で楽しんでいました。

Bryan and sn 1983

右が木村麗子(うららこ)さん

今回ブライアンをピックアップしたのは、もちろん彼の魅力を伝えたいというのもありますが、ブライアンの海外取材にはなぜかいつも面白い出来事が起こり、海外取材としても印象深いものばかりなので、その思い出を残すことにします。考えてみると、Duran Duranよりも海外取材が多かったな〜。

ブライアンの海外取材は、いつも当時ミュージック・ライフの編集長東郷かおる子さん、音楽評論家の大森庸雄さんとご一緒させていただいていました。バンクーバーもそんなみなさんと一緒でした。私にとって初のカナダ。バンクーバーはとても爽やかな街で、なぜかその時は「年をとったらこんな街でのんびり過ごしたい!」でした。

Bryan and sn 1983-2

RelaxのTシャツが恥ずかしい。しかしこれで、83年ごろというのがわかりました。W

バンクーバーでは、ブライアンの事務所がプロレスの興行をやっていた関係上、インタビュー、シーフードの会食のあと、みんなで女子プロレスを見に行きました。これだけでもう笑えます。さっきまでブライアンの事務所社長の顔をしていたブルースさんが、会場にはいると、ちょいとワイルドな興行主の顔になっていましたw。さすがにブライアンは参加しませんでしたが。。。

そこで驚いたのは、当時日本で外国人の悪役として知られていたプロレスラーが、なんとバンクーバーでは、悪者ではなく、あっ、ヒールっていうんですよね!良いものチームにいたのです。名前を忘れちゃっていたのですが、調べてみたら、モンスター・リッパーでした。試合が終わったあと、一緒に写真を撮ったり、笑顔で応対してくれたり、と優しい人で、日本で見たTVでの印象と全く違うので驚いたものです。ちなみにその写真、、、どこにいっちゃったんだろう・・・。モンスター・リッパーは16年前、40歳の若さで亡くなっていました。せつない。。。

Monster Ripper

Monster Ripper

ブライアンの取材に行ったのに、やけにプロレスで盛り上がったバンクーバーでした。あの頃は、取材が終わるとオフの時間にはみんなで観光に行き、スタンレー・パークのトーテンポールを見に行ったり、ガスタウンに行ったりと楽しんだものです。

1983 in Vancouver

社長のブルース・アレン、ジム・ヴァランスもいます。 ヨットハーバーのシーフードレストランです。

この頃と今と、ブライアンはまったく変わらないです。もちろん、大ヒットを連発し、ここから世界のブライアンになっていくわけですから、大物としての風格は年々出てきました。インタビューにはなかなか応じないという印象がありましたが、ブライアンは比較的積極的にインタビューをしようと試みてくれる人でした。数は多くはありませんが…。ツアー中のインタビューはあまりやりませんが、90年代だったか、武道館のライヴ終了後、いつものように麗子と楽屋に行き詰め寄ると、じゃあ明日ホテルに来て、なんて言われ、3人でインタビューをやってしまったなんてこともありました。ファンのみなさんにはすでにお伝えしていますが、その時のブライアンの朝食はフルーツを自分で細かく切ってボールにいれて食べていました。

「18 til I Die」の時には、ブライアンが記念として、限定でシルバーの指輪を作ったものをいただきました。死ぬまで18歳は人生の指針です。すごいゴツゴツしているので、いつもつけているわけにはいきませんが、先日のライヴには、チェーンにとおして、ブレスレット代わりにつけていきました。

18 til i die

「18 til I Die」限定シルバーリング

ブライアンは、84年、4枚目のアルバム「レックレス」をリリースし、大きな飛躍をとげます。レックレス・ツアーは、85年の初の日本武道館でのステージを見ましたが、運良くロンドン・ウエンブリー・アリーナでも見ることができました。ロンドンでは、ティナ・ターナーがゲスト参加し、「It’s Only Love」をデュエットし盛り上がりました。このライヴ・テイクは映像でも見ることができます。
この年から、ブライアンは単独ツアーの時には、ずっと日本武道館でコンサートを行っています。これってすごい記録ですよね!本人もそれをとても喜んでいましたよね。

そして「レックレス」から2年後に「In To The Fire」をリリース。この時の取材は、なんとハワイのマウイ島でした。ホノルルならともかく、マウイ島だなんて、当時は行きたくても機会がなければいけない場所だったので、もうそれだけで嬉しかったものです。

しかし事件は起こるんですね〜、この取材チーム!着いた途端に全員の荷物が到着しなかったのです。いや〜あせりました。ハワイに着いてからの最初の行動は、スーパーに行って着替えを買う!でしたから。まあこれは序の口!

ブライアン自身はレコーディングが終わり、休暇を過ごしていました。相手はオフですから、取材時間が変更になったりするのは仕方ないとしても、無事に取材は終わりました。取材はいつも何一つ問題はなかったのです。
休暇中の本人がのんびりしているところを押しかけた日本チーム。こんなことって、今じゃ考えられません。ブライアンもよくOKしたなと思います。

Bryan and sn 1986

お仕事オフモードでした。二人とも・・・

仕事が終わったら観光です。フォトグラファーのウィリアム・ヘイムズさんの運転で、みんなで島巡りをすることになりました。今回は東郷さん、大森さん、そして音楽評論家の天辰保文さんが参加。麗子は打ち合わせでホテルに居残りになってしまいました。でもラッキーだったかも。私たちが向かったのは、天国に一番近い街といわれているハナ。午後になって出発したのですが、これが大間違いでした。ハナへは曲がりくねった600のカーヴと細い道を運転しないとたどり着けない場所です。みんなで気軽な気持ちで行きましたが、とんでもない、気持ち悪くなるは〜、ガタガタ揺れるは〜、外の景色眺める余裕ないは〜、の無口な3時間。そして到着したのは日が落ちてから。美しい街を堪能することもできず、たった1件あった商店も早々と閉店していて、真っ暗な中で、ちょっとだけ海を見て、そしてまた恐怖の3時間を経て、ホテルにたどりつきました。ハナは強烈な思い出となりました。東郷さん、乗り物酔いしていたな〜。私の友人が来年マウイ島に移住するのですが、ハナの近くだそうです。ハナ・リベンジは、いつか友人をお供にチャレンジしたいと思います。

マウイ島の観光の写真がなかったのですが、天辰さんにご提供いただきました。

1986 in Hawaii

貴重な写真。雲の合間から天国の階段が見えます。これだと見えないけど、実際にみえました。 東郷さんの髪飾りがかわいいです。

ブライアンの海外取材はニューヨークもありました。マジソン・スクエア・ガーデンででのライヴはこれまた最高のステージでした。振り返れば、ニューヨークは、問題は起こらなかったと思いますw

80年代ウエンブリー、マジソン、武道館をソールドアウトにしたブライアン・アダムスは、このあと「アイ・ドゥ・イット・フォー・ユー」「オール・フォー・ラヴ」のビッグ・ヒットにより、スーパースターへと階段を上っていくのです。

Bryan and sn sisters

Bryan with sn and sachi

rock goukaidensetsu

ちなみに大森庸雄さんの新刊です